湾岸戦争後の掃海活動における海軍間協働

― 日独協力(「湾岸の夜明け作戦」と“Operation Südflanke”)を例として ―

(海上自衛隊幹部学校SSGコラム 189 2021/03/18)

ポスト・コロナの不安定な情勢下、欧州諸国は、インド太平洋に強い関心を示し、これまで 以上に海軍の展開を計画しつつあり、海軍間協働の機会は増えていくことが見込まれるととも に海洋安全保障上のその重要性は一層、増していくものと考えられる。

やはり不安定な時代であった冷戦終結後、米国を中心とする多国籍軍がイラクのクウェート 侵略に対し、その結束力と当時、「ハイテク兵器」と呼ばれた最新の軍事技術により圧倒した湾 岸戦争から 30 年が経過し、戦後、9 か国海軍の協働により実施され、我が国にとっては、自衛 隊海外派遣が政策として定着する契機となったペルシャ湾での掃海活動からも30年の歳月が流れようとしている。


図1:ペルシャ湾における多国籍掃海部隊 (1)

この30年の節目において、海上自衛隊が海外展開し、一層の海軍間協働を実施していく大きな契機となった湾岸戦争後のペルシャ湾での掃海活動を振り返ることは、いささかの意義を持つものである。

本稿においては、海軍の協働という視座から、第二次世界大戦後、海外での活動に関して制限があったという点で境遇を同じくした海自とドイツ連邦海軍(以下、「独海軍」)における派遣に関する経緯の対比、現地での協働について確認し、その歴史的意義等について考察したい。

日独の派遣に係る議論及び経緯

ペルシャ湾への展開に関しては、ドイツが先行していた。湾岸戦争開戦前の1990年4月から「南方の盾作戦」(“Operation Südflanke”)として、地中海に掃海艦艇を含む部隊を派遣し、テロ警戒等に任じていた (2)。しかしながら、憲法に相当するドイツ基本法でNATO域外で の軍事行動が禁止されていたため、湾岸での戦闘には参加していなかった (3)。湾岸戦争に参加し ていなかったことによる周辺国からの批判などから、停戦直後の1991年3月、共同による掃海活動の開始とともに米国の要請により、独海軍の掃海部隊は、「南方の盾作戦」第二段階として、ペルシャ湾に展開した (4)。


図2:「南方の盾作戦」に従事した独海軍掃海艇 (5)

こうしたドイツの動向もあり、国際社会は、同様に我が国に対しても、経済大国に相応しい対応を求めてきた。我が国に対して資金面のみならず人的貢献を求める国際世論が高まった。 国内においてペルシャ湾における航行船舶の安全確保についての要請、及び被災国の復興に寄与するための人的貢献を求める動きが急速に高まったことから、政府は平成3年4月24日、 安全保障会議及び閣議において、自衛隊法第99条に基づく措置として自衛隊創設以来、初の海外実任務としてペルシャ湾に掃海艇を派遣することを決定した (6)。

この派遣の決定において、ドイツの掃海艇派遣の発表は、日本政府内で燻っていた掃海艇派遣の機運を生んだとされ (7)、国際世論に加え、我が国の政策決定への影響を与えたとすることができる。

日独派遣の概要

海上自衛隊ペルシャ湾掃海派遣部隊は、政府決定の2日後4月26日、掃海母艦「はやせ」、補給艦「ときわ」、掃海艇「ひこしま」「ゆりしま」「あわしま」「さくしま」の6隻、511名の隊員で編成、出港し、5月27日補給基地となるアラブ首長国連邦のドバイ、アル・ラシット港に7,000 海里の航海を経て入港、多国籍海軍部隊との作戦会議の後、クウェート沖の現地に向け進出、6月5日から機雷掃海作業を開始した (8)。

独海軍は、前述のとおり、3月から掃海活動にあたっていたが、掃海母艦1隻と掃海艇5隻、支援艦艇1隻と、海上自衛隊の派遣部隊とほぼ同規模の勢力であった (9)。

全体としては、アメリカ、イギリス、フランス、ベルギー、オランダ、イタリア、ドイツ、 サウジアラビア及び日本の9カ国から派遣された約40隻の掃海艦艇による共同作業であり、 掃海担当海域の割当、作業実施上の安全確保、作業効率の向上、成果の確認及び共同連携要領等の調整のため、何回となく各国指揮官及び幕僚による作戦会議が行われた (10)。

ペルシャ湾における日独協力

ペルシャ湾への派遣に関して、似た境遇にあった日独両掃海部隊は、掃海作業開始後、隣り合ったエリアを担当することとなったが、これにより、様々な協力の機会が生じた。

独海軍は、ペルシャ湾に3機のヘリコプターを展開させていたものの、着艦可能な艦艇を派遣していなかったため、陸上の航空基地を拠点に運用し、作戦所要に応じて米海軍の艦艇に着艦して給油を受けていたが、米海軍の支援が困難な場合には、海上自衛隊の掃海母艦「はやせ」または、補給艦「ときわ」から給油を受けることとなった。独海軍のヘリコプターは、海 自部隊の人員移送や物品輸送に応じることで、これに報いた。このことは、ペルシャ湾掃海派 遣部隊に対する洋上での他国軍の艦艇やヘリコプターへの給油を認める防衛事務次官通達に沿ったもので、演習や練習航海などでの共同訓練も含め、米海軍以外のヘリコプターが海上自衛 隊の艦艇に降り立ったのは、初めてのことであった (11)。


図3:「はやせ」に着艦した独海軍ヘリコプター (12)

6月25日には、独海軍の掃海艇「ゲッチンゲン」で急患が発生し、深夜、「はやせ」で応急処置、医官の判断により、翌日、米軍ヘリでサウジアラビアの病院に後送された (13)。この事案 は、当時、協同作業で人命が救われたものとして現地で大きく報道され、好評を博すこととな り、派遣部隊指揮官であった落合畯は、各国掃海部隊がお互いに連携しながら、ペルシャ湾における共同作戦を実施したことを示す好例と述懐する (14)。

協力は、過酷な作業の疲れをいやすビールが底をついた際の融通に及び (15)、一足先に作業を終了し本国に帰国することとなる独海軍掃海部隊は、わざわざ日本部隊に近づき、別れの挨拶を交わした (16)。

総括

湾岸戦争後のペルシャ湾における掃海作業を日独の協力という視点から概観したが、この成果は、海軍の協働によりなされたものとして歴史的な意義を有するものである。米戦史家エドワード・マロルダ(Edward Marolda)は、多国籍海軍の作戦が大きな成功をおさめた要因を参加した各国海軍が1つのチームとして機能したこととし、その基盤を平素から行われている共同訓練の実施、共通の兵器、装備の採用、海軍間の交流としている (17)。

他方、この掃海作業における日独海軍は、これまで共同訓練や交流の実績がほぼなく、装備も共通せず、マロルダの指摘する基盤が乏しい中で成果を挙げているが、こうした基盤に恵まれなくとも1つのチームとして日独の掃海部隊が機能し得たことについては、大きく二点が考えられる。

第一には、多国籍海軍の中枢に各国の海軍とこうした基盤を有していた米海軍がおり、米軍を介した協働であったことである。

また、海自部隊の指揮官落合畯が述懐する担当区域が隣接することで感じていた親近感や現 地で行われた指揮官同士の懇談、隊員相互の艦艇見学等 (18) によるものも大きいと考えられる。

今後、各国のインド太平洋への関心の高まりから、海上自衛隊もこれまで以上に海軍間協働の機会に直面していくことが予期される。しかしながら、その対象は、必ずしも運用思想や装備を共有し、これまでの交流実績が十分な相手とは限らないことから、戦史面でも、我が国にとっては、自衛隊海外派遣が政策として定着する契機となったペルシャ湾での掃海活動をはじめとした協働事例から教訓等の導出を引き続き試みていく。

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海上自衛隊幹部学校 戦史統率研究室 本名 龍児

本コラムに示す見解は、海上自衛隊幹部学校における研究の一環として執筆者個人が発表し たものであり、防衛省・海上自衛隊の見解を表すものではありません。

1. 米海軍撮影
2. Dieter Stockfisch, "Bedrohte Meerenge", Europäische Sicherheit & Technik, April 2012, p.113.
3. 加藤博章「自衛隊海外派遣の開始」『自衛隊海外派遣の起源』名古屋大学リポジトリ、2017年、118頁。
4. Stockfisch, "Bedrohte Meerenge", p.114.
5. 独海軍撮影
6. 落合畯「Operation Gulf Dawn」海自 HP、2001 年 10 月、1-2 頁。
7. 加藤「自衛隊海外派遣の開始」123頁。
8. 落合「Operation Gulf Dawn」2 頁。
9. Stockfisch, "Bedrohte Meerenge", p.114.
10. 落合「Operation Gulf Dawn」2 頁。
11. 碇義朗『ペルシャ湾の軍艦旗』、光人社、2005年、137-138頁。
12. 落合「Operation Gulf Dawn」8 頁。
13. 神崎宏『湾岸の夜明け作戦全記録』朝雲新聞社、1991年、202頁。
14. 落合畯「ペルシャ湾掃海回想録」『軍事研究』、ミリタリーレビュー社、2013 年 12 月、155 頁。
15. 碇『ペルシャ湾の軍艦旗』139頁。
16. 落合畯「ペルシャ湾掃海回想録」『軍事研究』、ミリタリーレビュー社、2014年2月、158頁。
17. エドワード・マロルダ著、相沢淳訳「多国籍の艦隊」『戦史研究年報』第1号、防衛研究所1998年、 64 頁。
18. 落合「ペルシャ湾掃海回想録」156-157頁。