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160 JAHRE DEUTSCH-JAPANISCHE FREUNDSCHAFT
コンラート
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160年の学びと発展

この160年の間、日本とドイツは常に出会い、密接に交流し、お互いに学び合い、その結果として発展してきました。両国は知識やノウハウを共有し、時には失敗を経験し、その失敗から学ぼうと努力を続けてきました。21世紀の今、私たちは平和維持活動だけでなく、政治、科学、ビジネス、芸術、文化などの分野でより良い世界を目指して緊密に協力し合っています。

現在、日独両国は、多国間および安全保障政策において協力を強化する新たな段階に入ろうとしています。この記念すべき年は、両国の軍事・安全保障関係に焦点を当て、交流の歴史を振り返ってみる格好の機会でもあります。それは、平和と紛争という問題をはるかに超えた視点を与えてくれます。両国の発展、戦争と破壊、その後の国際社会における協力関係の再構築を振り返る好機となるでしょう。

この展覧会では、プロイセンと日本が国交を開いてから起こったさまざまな事実を再発見し、地域の平和と安全を維持する今日の協力関係についても知っていただくことができます。

文化、政治、ビジネスにおける160年の日独関係を軍事史的観点から捉え直し、絆と友好を深めてきた160年の歴史を辿る旅へとご案内いたします。

経験に学ぶ

1892年にドイツ海軍大学校に留学した伏見宮博恭王(ふしみのみやひろやすおう)。
Photo: Marineschule Mürwik und Wehrgeschichtliches Ausbildungszentrum

1868年の明治維新まで、日本は比較的平和な時代が2世紀以上にわたって続きました。俳諧、文楽、歌舞伎、浮世絵などのユニークな芸術文化が花開いた江戸時代。ドイツを始めとするヨーロッパでも日本文化の影響があらわれ、、遠い国、日本への関心が高まっていました。

1853年にアメリカのペリー提督が来航し、後に日米修好通商条約が締結されると、通商への門戸が開放されましたが、同時に、当時の日本を治めていた徳川幕府の統治は揺らぐことになります。

プロイセンも、1861年の条約締結後は公式に日本への入国を認められました。プロイセンは軍事力や科学技術、そして芸術や文学の分野にも長けた国として高く評価されていました。外圧に抵抗しながら富国強兵の目標を掲げることになる明治政府にとってプロイセンは、近代国家への発展のために有用や知識や技術を持つ国だったのです。

このような背景のもとで、日本とドイツの外交は始まりました。

トラブル続きの交渉と殺人事件

Photo: Sven Saaler

日本とドイツ(当時のプロイセン王国)が初めて国交を結んだのは、今から約160年前のことでした。

オーストリア・ハンガリー帝国のアジア進出に刺激されたプロイセンは、使節団を組んで1859年10月に欧州を出発しました。しかし使節団は、最初からさまざまな問題に直面します。当初の遠征隊長であるエミール・フォン・リヒトホーフェンが参加を取りやめ、予定されていた4隻の船には当時のプロイセン海軍兵士の約半数もの兵士が必要でした。さらに遠征に使用する4隻のうち、1隻はまだ建造中でした。

最終的には蒸気コルヴェット艦「アルコーナ号」、イギリスで調達した「テティス号」、スクーナー船「フラウエンロブ号」、輸送船「エルベ号」の4隻がアジアに向けて出発します。しかしアジアへの航路にも次々に困難が襲います。アルコーナ号は事故を繰り返し、最初の乗組員はイギリスで脱走してしまいした。日本到着の前日には台風に見舞われ、フラウエンロブ号が42名を乗せたまま沈没。残った3隻のみが、1860年9月4日に江戸湾で投錨しました。

そして交渉も難航を極めました。日本側の代表は、江戸幕府老中の安藤信正。プロイセン王国の全権代表は、フリードリヒ・アルブレヒト・ツー・オイレンブルク伯爵でした。日本側は内政圧力が高まり、これ以上の外国との不平等条約は避けたいところでした。日本側はプロイセンにはさしたる海軍力が無いことを承知しており、軍事力による威圧も効果がありませんでした。

1861年1月15日、プロイセン側の翻訳者ヘンリー・ヒュースケンが攘夷派に殺害されるという悲劇が起きます。しかし結果的に、これが交渉の突破口となりました。オランダ人のヒュースケンはアメリカの公使館所属であり、プロイセンにはいわば貸し出されていた身分であったため、プロイセン側は直接の被害を訴えることはありませんでした。その一方で日本側には欧米諸国からの圧力が高まり、一刻も早く条約を締結しなければならなくなったのでした。そしてついに1861年1月24日、日普修好通商条約という二国間条約が締結されるに至ります。

トラブル続きの交渉と殺人事件

1859
Photo: Sven Saaler

1859年10月に欧州を出発したオイレンブルク伯爵 率いる使節団。コルヴェット艦アルコーナ号とテー テイス号、スクーナー船フラウエンロブ号、輸送船エルベ号の4隻で日本を目指した。

Photo: Sven Saaler

帆船による欧州から日本への航海は、喜望峰経由で10ヶ月以上に及んだ。音楽などで退屈を紛らわす航海の様子が、同乗した画家の手でよって描かれている。

Photo: Wikimedia Commons /『東アジア1860-1862』東京大学史料編纂所

フリードリッヒ・ツー・オイレンブルク伯爵

1815–1881

ケーニヒスベルク大学とボン大学で法律学を学んだオイレンブルクは、アントウェルペン総領事を経て外交の道へ。1861年1月に日普修好通商条約を締結すると、同年9月に清国を訪ねて同様の条約を結んでいる。アジアでの実績を認められ、1862 〜 1878 年にはビスマルク首相のもとで内相を務めた。

リューダー・アレンホルトが描いたプロイセンのスループ・オブ・ウォーSMS フラウエンロブ (1891, WIkimedia Commons)

欧州を出港後、アルコーナ号は北海の暴風で損傷し、イギリスで修理をしている。 またスクーナー船のフラウエンロブ号は、運悪く伊豆沖で台風に巻き込まれて沈没。スエズ運河開通前の帆船による船旅は、多くの危険を伴った。

1861
水彩でカール・フォン・アイゼンデヒャーが描いた横浜沖で沈没したSMSアルコナ (University of Bonn)

長旅の末、使節団が江戸湾に投錨したのは9月のこと。しかし条約締結に向けた交渉は難航し、越年することになった。横浜港付近から見た帆船の背後には、箱根の山越しに真っ白な富士山が見えている。

Photo: Sven Saaler

日普修好通商条約は、ドイツ語、オランダ語、日本語の3か国語で作成されている。日本側からは3名の交渉人が署名し、プロイセン側は特命全権大使であるオイレンブルク伯爵が署名した。

Photo: Sven Saaler

プロイセンの使節団が宿泊していたのは、当時の米国公使館も兼ねていた麻布善福寺。責任者の江戸幕府外国奉行が自決したり、通訳のヘンリー・ヒュースケンが攘夷派に殺害されたりという苦難を乗り越えた条約締結だった。

Photo: Sven Saaler

友好、航行、貿易に関する条約の調印

Photo: Sven Saaler

日本にやってきた最初のドイツ人たち

1889年の大日本帝国憲法発布略図 (Wikimedia Commons / 楊洲周延画)

日本にやってきた最初のドイツ人たち

1603年から1868年まで徳川幕府により、鎖国政策がとられ、中国人とオランダ人以外の外国人は日本の地を踏むことは許されませんでした。この間長崎の出島だけが、ヨーロッパに開かれた門戸でした。出島のオランダ商館にはいろいろな背景をもつ医者たちが住み、診療をしていました。「出島の三学者」と呼ばれる学者の中でも、医師であり自然科学・博物学者でもあったフィリップ・フランツ・バルタザール・フォン・シーボルト(1796-1866)は特にその名が知られています。

シーボルトは、日本とプロイセンが外交関係を結ぶずっと以前の1823年8月に来日しました。シーボルトは鎖国下でも日本に行き、日本について研究するために、オランダ語が流暢ではなかったにも関わらず、自らをオランダ人と偽ってまで日本の出島に来る許可を得ました。来日して間もなく、シーボルトは出島の外の長崎郊外に自然科学や医学を教える鳴滝塾を開きました。そこで彼は西洋医学を教授し、実践もしました。後に幕府批判をした高野長英など、塾生たちはその後日本を代表する医者や学者となりました。

日独関係が始まった当初それ以外にも初期の日独関係に大きな影響を与えた3人のドイツ人がいました。カール・フリードリヒ・ヘルマン・ロエスレル (1834-1894)は、1878年来日し、東京の外務省で法律顧問を務め、日本の近代法治国家への発展に大きく貢献しました。明治政府はプロイセンを手本とする立憲主義の導入を決め、ロエスレルは、のちに首相となった伊藤博文の信頼を得、大日本帝国憲法や商法の起草にも関わりました。

クレメンス・ヴィルヘルム・ヤーコプ・メッケル(1842-1906)は、1985年3月に来日したプロイセンの将校でした。ドイツで彼は陸軍士官学校で教鞭をとり、戦術や部隊の統率力、訓練方法などに関するさまざまな論文や著作を出版していました。日本政府は、彼に日本における参謀教育課程の設立を託します。そこで彼は創設間もない「陸軍大学校」で教育訓練を始めました。ドイツに戻ってからも日本陸軍の発展を注視し、1904年から1905年にかけて日露戦争が始まると、教え子の一人である満州軍総参謀長の児玉源太郎に作戦計画書を送っています。1904年の死後、日本でも追悼が行われました。

ハインリッヒ・エドモンド・ナウマン(1854-1927)は、日本で発見した先史時代のゾウ「ナウマンゾウ」の発見で有名になった地質学者で、明治政府が西洋の科学、技術、制度を導入するために特別に日本に招いた外国人、いわゆる「お雇い外国人」として明治時代に来日しました。日本の近代地質学の基礎を築くこととなるナウマンは、21歳の若さで来日し、1875年に東京開成学校(後の東京大学)の教授となりました。彼は日本全国を回り、日本初の完全な地質図を作成し、日本列島を分断する大地溝帯「フォッサマグナ」を発見したことでも知られています。

日本にやってきた最初のドイツ人たち

1823
「シーボルト肖像画」川原慶賀筆(長崎歴史文化博物館)

フィリップ・フランツ・フォン・シー ボルト

1796–1866

いわゆる出島の三学者の一人として、江戸時代より 日本に西洋科学を伝えた。1823年3月に来日し、長崎出島のオランダ商館医に。1824年には出島外に鳴滝塾を開設し、西洋医学(蘭学)教育を行う。高野長英、二宮敬作、伊東玄朴、小関三英、伊藤圭介らの塾生は、後に医者や学者として活躍している。

Photo: Wikimedia Commons / 幕末ガイド

楠本 イネ

1827–1903

ドイツ人医師のフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトと、丸山町遊女であった瀧の間に生まれる。 シーボルト門下の町医者である二宮敬作から日本人女性として初めて医学の基礎を学び、石井宗謙から産科を学んだ。東京築地に産科医院を開業し、天皇家の出産などにも立ち会っている。

1875
Photo: Wikimedia Commons / Fossa Magna Museum

エドモンド・ナウマン

1854-1927

ザクセン王国マイセンで生まれ、1875年に東京開成学校の教師として来日。金 石学、地質学、採鉱学を教えて、日本における近代地質学の基礎を築いた。自らが設立に関わった地質調査所の責任者として、日本列島の地質調査に従事。フォッサマグナを発見し、古代生物のナウマンゾウにもその名を残した。

Photo: Wikimedia Commons / CC BY-SA 3.0
九州ー関東地方の地質構造図
1878
Photo: Wikimedia Commons / Catalogus Professorum Rostochiensium - Universität Rostock

ヘルマン・ロエスレル

1834-1894

1878年に来日し、法律顧問として東京の外務省に勤務。国際公法や国内法上の諮問に答申し、関連法案を作成した。伊藤博文の信任で内閣顧問を務め、 大日本帝国憲法作成や商法草案作成の中心メンバーとして活動。法治国家と立憲主義の原則を重んじるプロイセン流立憲主義を日本に導入した。

Photo: Wikimedia Commons / 国立公文書館デジタルアーカイブ

大日本帝国憲法には、明治天皇睦仁の御名御璽が記されている。
1885
Photo: Wikimedia Commons / Die Großen Deutschen im Bild (1937)

ヤコブ・メッケル

1841-1906

ケルンのビール醸造家に生まれたヤコブ・メッケル 少将は、1867年にプロイセン陸軍大学校を卒業。普 仏戦争にも参加し、鉄十字勲章も受章した。陸軍の近代化を推進する日本政府からの派遣要請に応じ、1885年3月に来日。陸軍大学校教官として参謀将校を養成し、日本陸軍のプロイセン化を推し進めた。

Photo: Wikimedia Commons / 『近世名士写真. 其1』(近世名士写真頒布会、1935)

児玉源太郎

1852-1906

長州藩の中級武士の長男として生まれ、日清戦争での活躍を経て1898年から台湾総督に就任した。その後は陸軍参謀本部次長と満州軍総参謀長も兼任し、日露戦争での勝利に貢献。恩師ヤコブ・メッケルは児玉を高く評価し、日露開戦前から「児玉将軍がいるかぎりロシアに敗れることはない」と語っていた。

1898
Photo: Wikimedia Commons / Hamburgische Männer und Frauen am Anfang des XX. Jahrhunderts; Kamerabildnisse. / Taken, etched in copper, and printed by Rudolph Dührkoop.

ユストゥス・ブリンクマン

1843-1915

ハンブルク美術工芸博物館の創立を提唱し、完成後は30年以上にわたって初代 館長を務める。当時は専門的な知識も乏しかった日本美術の収集に取り組み、20世紀初頭ではドイツ随一となるコレクションを完成。1889 年には『日本の美術 と工芸』を著し、欧州内で日本文化への理解を広めた。

Photo : Wikimedia Commons / Museum für Kunst und Gewerbe Hamburg
1908
Photo : Wolfgang Wiggers

ドイツ人商人が撮影したと思われる1908年頃の横浜周辺

Photo : Wolfgang Wiggers
Photo : Wolfgang Wiggers
Photo : Wolfgang Wiggers
Photo: Bundesarchiv, Bild 146-1982-139-22 / Hellmuth Struckmeyer-Wolff

カール・エルンスト・ハウスホーファー

1869-1946

ミュンヘン生まれのドイツ人地政学者。日本には軍事オブザーバーとして滞在し、博士論文 「日本の軍事力、世界における地位、将来に関わる考察」をまとめた。アジア文化に造詣が深かった。

Photo: Militärhistorisches Museum der Bundeswehr
軍服を着た日本人兵士のドイツ製の絵葉書

日独の遭遇

Photo : Wolfgang Wiggers

日独の遭遇

日本とドイツが国交を結び、お互いの国への文化的な関心も高まっていきました。

日普修好通商条約が締結された翌年の1862年には、日本から文久遣欧使節団が出発。そのなかには若き福沢諭吉もいました。

1年にも及んだ旅の中ではプロイセンも訪れ、ベルリンでヴィルヘルム1世にも謁見。この時ベルリンで滞在したホテル「オテル・ド・ブランデブールに」には、和装のサムライたちを一目見ようとベルリンっ子たちが押し寄せました。使節団の日本人たちが窓から顔を出し、野次馬の見物人たちを眺める様子が地元の新聞に載せられています。

1877年に開館したハンブルク美術工芸博物館は、古代から現代に至る欧州、中東、アジアなどの芸術や手工芸品を収蔵しています。この博物館の初代館長となったユストゥス・ブリンクマン(1843-1915)は、日本の美術工芸を欧州に紹介した第一人者でした。日本への渡航歴はないものの、まだ資料もない時代に日本美術を大量に収集しました。1889年に著した『日本の美術と工芸』では、絵画、庭園、建築、工芸品、そして葛飾北斎らによる浮世絵の素晴らしさを詳細に論じています。同書は日本美術に関心を持つ人々の必読書となりました。

ビュッケブルグから極東へ ー あるドイツ人下士官の日本滞在記

Photo: 和歌山市立博物館

ビュッケブルグから極東へ ー あるドイツ人下士官の日本滞在記

1869年、シャウムブルク・リッペ公国猟兵大隊の兵士の一人、カール・ケッペン軍曹は日本に招聘されました。彼は、紀州藩(和歌山藩)にドライゼ式撃針銃を販売する貿易会社レーマン・ハルトマン社の仲介で日本にやってきました。表向きにケッペンが依頼されていたのは、紀州藩の軍隊にドライゼ銃の弾丸と弾薬の製造を伝授することでした。表向きの依頼ではなかったものの、彼はプロイセン方式の兵士の訓練も行いました。

この任務に就き、ケッペンはさまざまな問題と直面します。何より日本の兵士の戦い方は、彼がヨーロッパの戦場で学んだものとは大きく異なり、彼が持参した新しい武器とも相容れないものでした。また、日本の兵士の装備は、新しい時代の戦闘には不向きでした。そのため、彼が信頼を置いていた日本人らの協力を得て、紀州藩の軍全体の再編成に着手したのでした。

ケッペンが藩の兵士らに行った最も重要な訓練の一つが教練でした。さらに兵学寮(士官学校)を設立し、戦術などを教えました。訓練では、時間を守ること、清潔にすること、装備の整理整頓などの人格教育を特に重視し、すべての兵士に総合的な基礎訓練(応急手当、武器の手入れなど)を導入しました。同時に、彼は残酷な罰を廃止し、代わりに良い成果を褒めることに重きを置きました。紀州藩で初めて導入された徴兵制度(武士だけでなく紀州藩の他の身分の人々にも課された兵役)は、日本で初めて導入されたもので、これも、ケッペンが残した業績の一つでした。その結果、武士と農民や職人などが対等に扱われたことは、他の藩では波紋を呼びましたが、紀州藩はそれを良しとしました。

兵士の新しい制服には新しい織物が必要となり、紀州藩に綿フランネルが導入されるきっかけとなりました。 また、ドイツのケッペンの故郷の村から招かれた職人たちは、日本人に丈夫な革靴の製造法を指導しました。

カール・ケッペンの人生については、仕事と日常生活の両方を綴った日記によって、かなりの部分が知られています。紀州藩での彼の任務は、紀州藩の軍隊も日本国軍の一部として編入されたことにより2年間で終了します。彼が果たした軍事的活動のうち今日まで残っている足跡は多くはありませんが、短い期間ではあっても紀州藩の軍隊が日本で当時最も近代的なもの生まれ変わったのは彼の功績と言えるでしょう。そして彼が日本にもたらした手工業の技術は、今でも和歌山に息づいています。

ビュッケブルグから極東へ ー あるドイツ人下士官の日本滞在記

1869
Photo: 和歌山市立博物館

カール・ケッペン

1833–1907

紀州藩の依頼で軍事顧問として来日し、1869〜1871 年に約6,000人の藩兵を訓練。士官の教育、歩騎の操練、職制規律などを指導した。消耗の激しい日本式の服装に代わり、革靴や綿ネルの製造も実践。牧場を建設して食肉や牛乳を調達可能にするなど、日本における西洋文化導入の先駆けとなった。

Photo: 和歌山市立博物館

日本の友人らに囲まれたケッペン

Photo: 和歌山県立博物館

和歌山の海岸で組まれたプロイセンの典型的な戦闘陣形

Photo: Wikimedia Commons / Swedish Army Museum (above)
Wikimedia Commons / Amenhtp (below)

当時最新鋭だったドライゼ銃を装備するには、専用弾薬の製造能力も必要となる。カール・ケッペンが 弾薬製造を指導したように、軍事調練をきっかけにして製靴や製革といった西洋の技術も持ち込まれた。

Photo: IMASHIRO MERIYASU CO.,LTD.

フランネルは現在も和歌山で生産され続けている。写真は終戦以前から現在も使われている織機。

1876
Photo: Wikimedia Commons

エルヴィン・フォン・ベルツ

1849 – 1913

ライプツィヒ大学医学部を卒業し、1876年に東京医学校(現在の東京大学医学部)の教師として来日。 その後の滞日は29年に及んだ。日本の医学界の発展に尽くしながら、北海道で樺太アイヌの調査なども実施。また草津温泉に惚れ込み、世界に紹介した人物としても知られている。

1898
フランツ・バルツァー(前列中央)1903年日本での送別会(Wikimedia Commons / 『東京駅誕生』)

フランツ・バルツァー

1857-1927

日本政府の招聘に応じて、1898年に妻と2人の娘を連れて来日。主に建築を専 門とする鉄道技術者として、日本における鉄道網の整備に貢献した。東京駅周辺を高架鉄道にした基本設計やグランドデザインはバルツァーの手によるもので、戦火をはさみながら1972年に完成している。

1923年の関東大震災で倒壊する前の万世橋駅 (Photo: Wikimedia Commons)
Photo: Wikimedia Commons

森 鷗外

1862-1922

本名は森林太郎。陸軍軍医としてドイツに4年間留学し、帰国後に訳詩編「於母影」、小説「舞姫」、翻訳「即興詩人」を発表。その後も軍医総監や陸軍省医務局長を歴任しながら、近代日本を代表する小説家となる。『ファウスト』などゲーテの3作品をはじめとする外国文学も翻訳した。

君が代と一人のドイツ人音楽家

Photo: OAG - Deutsche Gesellschaft für Natur- und Völkerkunde Ostasiens

「君が代」は今日、日本の国歌として知られていますが、あまり知られていないのは、この歌には明治初頭幾つかのバージョンが公式な国歌の候補として挙げられ、その中からドイツ人フランツ・エッケルトの編曲したものが選ばれたということでしょう。エッケルトは1879年に日本の海軍省から日本に招かれた軍楽隊長で、わずか来日1年後に国歌編曲の依頼を受けたのでした。

明治初期のことで、記録も限られることもありエッケルトの業績や公式な「君が代」選定に関しては諸説あります。確かなことは、フランツ・エッケルトはとても短い期間に日本語や日本の伝統音楽、和歌披講という宮廷で詠み上げられる詩歌に関する広範な知識を得、その伝統を踏襲したことが、エッケルトの編曲が国歌として選ばれた理由の一つであったことです。

エッケルトはまた小学校唱歌の選定や編曲に関わっていたと思われます。そこでの彼の編曲の特筆すべき功績は、ヨーロッパの楽曲を日本の伝統的な楽器で弾けるように書き換えたことにありました。彼が様々な楽器の演奏ができ、(日本という異国で)遭遇した困難を乗り越える実践的な解決法を見出す才能を持っていたことが幸いしたと言えるでしょう。

フランツ・エッケルトは、日本で長年勤めたのちも、その異文化に素早く順応する才能を買われ、韓国に活躍の場を得ました。フランツ・エッケルトは1916年8月6日ソウルで亡くなり、ソウルの外国人墓地に埋葬されました。

君が代と一人のドイツ人音楽家

1873
Photo: Sven Saaler

ドイツ軍艦の断面図

西洋列強に並ぶ近代化を目指し、日本では科学と軍事技術の急成長が求められた。当時の版画からは、 ドイツの軍艦に用いられていた最先端の造船技術が見て取れる。

1880
Photo: OAG - Deutsche Gesellschaft für Natur- und Völkerkunde Ostasiens

フランツ・エッケルト

1852-1916

1852-1916ドレスデンなどで音楽を学んだ後、 ヴィルヘル ムスハーフェン海軍楽隊で海軍軍楽隊隊長に就任。1879年に音楽教師として来日し、1880年に「君が代」の編曲を手掛けた。西洋風のアイデアも挙がるなか、エッケルトは平安時代から続く「和歌披講」に着眼。古楽の伝統を模した導入部から、豊かな和声を加えてメロディーを際立たせた。

Photo: OAG - Deutsche Gesellschaft für Natur- und Völkerkunde Ostasiens & Photo: Wikimedia Commons / Curt Netto

エッケルトがオーアーゲー・ドイツ東洋文化研究協会会誌に寄せた、君が代編曲に関する報告

Photo: Wikimedia Commons / Curt Netto

国歌 君が代の表紙

1933
Photo: Wikimedia Commons / 国際建築協会

ブルーノ・タウト

1880-1938

表現主義的な建築家として知られるブルーノ・タウトは、ナチスの迫害から逃れて1933年に来日。京都、仙台、高崎などに住みながら、3年半の滞在期間中にたくさんの評論を書いて後世の建築家やデザイナーたちに影響を与えた。桂離宮や伊勢神宮を絶賛する一方、日光東照宮では過剰な装飾を酷評している。

Photo: Atami City

別荘として1936年熱海に建てられた旧日向別邸

Photo: Atami City
Photo: Atami City

....そして、
敵味方に分かれて対峙した両国

Photo: Militärhistorisches Museum der Bundeswehr

....そして、
敵味方に分かれて対峙した両国


第一次世界大戦中地中海で戦死した旧日本軍戦没者を祀る マルタにあるイギリス海軍墓地入り口(写真:日本マルタ友好協会)



Photo: 日本マルタ友好協会
マルタ、イギリス海軍墓地にある慰霊碑
20世紀初頭、日本とイギリスは同盟関係にありました。日英同盟と呼ばれるこの同盟は、1895年の日清戦争後日本が獲得した遼東半島を中国に返還するよう、ロシア、ドイツ帝国、フランスが協力し圧力をかけた、三国干渉がきっかけとなりました。イギリスはこの三国干渉を支持しなかったため、日本にとっての同盟国としての関心が高まったのでした。

ドイツ帝国と良好な関係を持っていると信じていた日本には、ドイツが日本に敵対する姿勢を取ったことは予想外でした。1904/05年の日露戦争を通じて、日本はサハリンの南半分と中国の一部で領有権を拡張したことにより、中国大陸でドイツ帝国と直接競合することになりました。ドイツ帝国内では、そういった背景からも東アジア人らが西洋による支配を脅かすのではという「黄禍論」のイメージが広がっていきました。

この時期、欧州列強間の緊張も高まっていきました。1914年6月28日、サラエボでオーストリア皇位継承者フランツ・フェルディナント大公夫妻が暗殺されたことにより、オーストリア・ハンガリー帝国と、ロシアを保護国とするセルビアとの間に亀裂が生じることになります。ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世と帝国宰相テオバルト・フォン・ベスマン・ホルウェーグは、オーストリア・ハンガリーへの無制限の支援を決定しました。1914年7月28日の最初の宣戦布告が出されると、結ばれていた各同盟システムが作動し、対立は瞬く間に世界大戦へと発展したのでした。その結果、第一次世界大戦では、ドイツ帝国と日本も敵国として対峙することになります。

1914年11月7日、圧倒的に優勢な日本とイギリスの連合軍は、ドイツの東アジア巡洋艦戦隊の主要港であった青島と膠州湾の要塞を攻略しました。その際、約4,500人のドイツ人が戦争俘虜となり、日本に収容されました。

日本の戦争俘虜収容所に収容されたドイツ人兵士達 1914-1920

Photo: 広島市市民局文化スポーツ部文化振興課

日本の戦争俘虜収容所に収容されたドイツ人兵士達 1914-1920

当時の日本は、青島のこれほど早期の降伏や多くの戦争俘虜に十分体制が整っていたとは言えませんでした。ドイツ人俘虜達は、その場しのぎの対応により劣悪な環境の貨物船で中国から日本に移送されました。俘虜達は到着後、一時的な収容先に滞在させられたのち、十数カ所の戦争俘虜収容所に収容されたのでした。

最も有名なのは、1917年4月に設立された坂東収容所(現在の四国・鳴門)で、その模範的な環境から、まさに「モデル収容所」とも言えました。950人以上の収容者がいたという規模だけでなく、何よりも収容条件が非常に良かったことから、坂東の歴史は日本の戦争俘虜となったドイツ人兵士をめぐるその後の語られ方に大きな影響を与えました。

坂東のドイツ兵捕虜は、収容所長の松江 豊寿大佐の寛容な態度のおかげで、とても人道的に扱われました。ドイツ人捕虜は他の収容所でも多くの自由と良好な待遇を享受したともいわれます。一般的に、日本の収容所は比較的広々とつくられ、俘虜達はスポーツをしたり、野菜を栽培したり、家畜を飼ったり、アルコールを飲んだりすることもできました。やがて兵士たちは、日本人の監視下で収容所から出て、周辺地域を散歩したり遠出したりすることも許されるようになります。また収容所内でオーケストラや合唱団、劇団などが結成され、スポーツクラブもありました。収容所の新聞などの印刷物も、収容所内の印刷所で発行されていました。俘虜達は、それぞれの職業に応じて互いに教え合い、東アジアの文化や言語の授業を受けることもできたのでした。

また、ドイツ人兵士が小遣い稼ぎのために日本の商店で働いたり、ドイツのパン・菓子・ソーセージや醸造技術を日本人が学ぶなど、近隣の住民との交流も活発に行われました。例えば習志野では、ドイツ式のソーセージである「習志野ソーセージ」が地域の名物のおやつとして今も残っています。

収容所のゲートは、終戦近くになると地元の人々にも開放され、俘虜達が企画したドイツ製品や芸術、ドイツの工芸品を紹介する展示会を見学したり、一緒にサッカーをすることもあったようです。戦争という大きな出来事があったにもかかわらず、いくつかの収容所では真の日独の友情が育まれました。

とはいえ、俘虜であるドイツ兵たちは一刻も早く収容所から出ることを望んでいました。祖国への軍事郵便は検閲の対象となっていました。収容所内での対立、脱走未遂や懲罰、収容による強い精神的ストレス、さらにはスペイン風邪により犠牲者も出ました。

しかし、1918年11月の終戦は、直ちに捕虜生活の終焉を意味せず、ドイツ人俘虜の大半が本国に送還されたのは1920年の春になってからでした。数百人の兵士はアジア(中国、日本、オランダ領インド)に残ることを選びました。現在も坂東戦争俘虜収容所の跡が残っています。1972年に開館した鳴門の「ドイツ館」は、ドイツ人捕虜の歴史を模範的に保存しています。

日本の戦争俘虜収容所に収容されたドイツ人兵士達 1914-1920

1904
写真:東京横浜独逸学園 / Photo: Deutsche Schule Tokyo Yokohama

横浜ドイツ学園

日普修好通商条約の締結後から、ドイツ人が横浜や東京に居住するようになった。1904年の9月20日には、日本で初めてのドイツ学校が横浜で創設されている。

1914
Photo: Militärhistorisches Museum der Bundeswehr

中国における第1次世界大戦

1891年からドイツが占領していた青島は、ドイツ風の建築や上下水道が整備されていた。他の欧州列強に出遅れたドイツは、日本の進出を牽制して三国干渉などで植民地を守ってきた。当時の風刺画には、中国大陸から見た日本列島の位置関係や、地政学的に重要な青島に手をかける日本への警戒心が表現されている。

Photo: Militärhistorisches Museum der Bundeswehr

青島の戦い

1914年の第一次世界大戦で、日本はドイツに宣戦布告した。1914年10月31日〜11月7日、ドイツ帝国の東アジアの拠点青島を日英連合軍が攻略。2つの写真には、日独両軍の視点から青島の戦いが描かれている。

Photo: Militärhistorisches Museum der Bundeswehr
戦闘地近くで救護される負傷者
Photo: Militärhistorisches Museum der Bundeswehr
戦闘の様子
1917
Photo: Sammlung Hans Kolster / Digitales Tsingtauarchiv / Universität Heidelberg

1918年3月8日~18日に坂東俘虜収容所で開催された「絵画・手工芸展覧会」の絵葉書

Photo: 広島市市民局文化スポーツ部文化振興課

捕虜には芸術家もおり、秀逸な木版画や絵画なども制作されて、展示会で地元の住民たちとも交流が深まった。

Photo: 広島市市民局文化スポーツ部文化振興課

Photo: Militärhistorisches Museum der Bundeswehr
Photo: Militärhistorisches Museum der Bundeswehr
Photo: Militärhistorisches Museum der Bundeswehr

ドイツ文化の発信

志願兵だった捕虜の多くは、もともと民間人なので生業があった。職人たちは各々の技術でものづくりに励み、絵画や音楽などの芸術も披露した。ベートー ヴェンの交響曲第9番が日本で初演奏されたのは板東収容所である。

ヨハン・ヤコビーが描いた1919年当時の板東俘虜収容所平面図(Wikimedia Commons / Bayerische Staatsbibliothek)

板東俘虜収容所

青島で日本軍の捕虜となったドイツ兵4715名のうち、約1000名が1917年から1920年まで収容された板東俘虜収容所。収容所長の松江豊寿陸軍大佐は捕虜を公正で人道的に扱い、ドイツ人捕虜と日本人住民との交流が深まった。兵士の捕虜を収容する8棟の兵舎を中心に、運動施設、農場、酒類工場、パン竈なども造営。収容所跡は2018年度に国の史跡に指定され、現在はドイツ村公園として整備されている。

Photo: Wikimedia Commons / 663highland

バルトの楽園(2015年閉園)

板東収容所のエピソードは「バルトの楽園」として2006年に映画化された。松平健やブルーノ・ガンツ など、日独の映画界で活躍する名優が出演している。日独友好と恒久平和を祈念する鐘などが撮影後も数年残されて観光スポットとなった。

苦難からの学び

Photo: Georgie Pauwels/CC BY 2.0

第一次世界大戦では敵味方に分かれて戦った日独両国は、戦後すぐにまたその距離を縮め、再び両国は互いに学びあうようになりました。様々な分野の研究者らが集い、情報交換を行ったのです。1922年のアインシュタインの訪問はその象徴でした。軍事の分野では日本ではドイツの潜水艦技術への関心が高まりました。

同時にこの時代はドイツの歴史の中でも最も暗い一章、国家社会主義の台頭が始まった時期でもありました。アドルフ・ヒトラーの指導のもと、ナチスは第一次世界大戦の敗戦と戦勝国からの高額な賠償金に対する国民の反感を利用することに成功しました。ナチスのプロパガンダによって、憎しみが煽られ、敵意が喚起され、(「他者」の)尊厳を踏みにじるような人間像が人々の心の中に植え付けられていったのでした。

1939年9月1日、ドイツがポーランドに侵攻したことにより、ヨーロッパで、筆舌に尽くすことができない暴力と残虐行為の時代である第二次世界大戦が始まりました。第二次世界大戦で同盟国だった日本とドイツは、大敗を喫することとなりました。この時代の記憶、特にホロコーストというドイツの犯罪の記憶は、決して忘れないためにも、未来のために過去の教訓から学ぶためにも、留めておかなければなりません。

日独同盟

Photo: picture alliance / akg-images

日独同盟

1940年9月27日、ドイツ、日本、イタリアは日独伊三国同盟を締結。三国はこれをベルリン・ローマ・東京枢軸として、世界的な戦略的重要性をもつ体制だとするプロパガンダを展開します。実態としては、この同盟は1936年に締結された政治条約日独防共協定を軍事的に拡張したものでした。この中でドイツと日本は、コミンテルンに共同で対抗するため情報交換を行うことで合意しています。しかし、より重要だったのは、ソ連が不当に攻撃してきた場合に好意的中立を守ることを約束した秘密付属協定でした。

1933年に国際連盟を脱退していた日独両国は、この協定によって外交上の孤立を回避します。しかし、この歩み寄りは両国内で大きな議論を呼ぶものでした。そもそも、その根源には第一次世界大戦後の講和交渉に端を発する一連の流れがありました。

日本は東アジアの新興強国として戦勝国側に立って講和交渉に臨んでいたものの、人種的な理由から軽視されていると感じていました。これが結果として、国内の国粋主義者や軍国主義者の勢力拡大を許すこととなります。日本は周辺地域で積極的な植民地拡張政策をとる中で、東アジアに植民地をもつアメリカや欧州諸国としだいに対立していきます。1930年代に入ると、日本はソ連を最大の脅威とみなすようになります。このことが、ナチズムとのイデオロギー的な近さも相まって、最終的にはドイツに接近する決定的な要因となったのです。1920年代末から始まった世界恐慌と、それを受けて先進工業国の間で急速に広まった保護関税政策が、この動きをさらに加速させました。

一方のドイツにとって、三国同盟は不信と人種差別と自己利益の追求を本質とする、実体のない同盟でした。このように、ベルリン・ローマ・東京枢軸はその成立当初から脆弱な同盟関係だったのです。

1936
Photo: Wikimedia Commons

日独合作映画『新しき土』には、原節子とルート・ エヴェラーが共演した。

Photo: Wikimedia Commons

日独合作映画『新しき土』は、ドイツの山岳映画の巨匠アーノルト・ファンクと日本の伊丹万作による共同監督。原節子の他にも、早川雪洲(国際俳優)、円谷英二(撮影協力)、山田耕筰(音楽)が参加した。

Photo: Wikimedia Commons / Imperial War Museum

1936年11月25日、ヒトラー内閣の外務大臣ヨアヒム・フォン・リッベントロップと華族・外交官武者小路公共が日独防共協定に調印した。

Photo: Osaka Mainichi Shimbun (November 25, 1937) Provided by Sven Saaler

日独防共協定調印の1周年を伝える大阪毎日新聞の記事

同じ月にイタリアが原署名国として加盟し、1939年にはハンガリー、満州国、スペインが参加して6カ国による協定となった。だが独ソ不可侵条約(1939年8月)と日ソ中立条約(1941年4月)の締結で空文化した。

Photo: Wikimedia Commons / Deutschen Reichsgesetzblatt 1937, Teil 2

ドイツ帝国の法律公報に掲載されたコミンテルンに対する協定

Photo: Sven Saaler

メディアの戦時報道

日独両国の新聞をはじめとするメディアは、漫画やイラストを用いて同盟の意義や戦局の肯定的な見通しを印象付けようとした。

Photo: Sven Saaler

風刺画:ドイツ・イタリア・日本が英国を海へ押し戻している

Photo: Sven Saaler
Photo: Militärhistorisches Museum der Bundeswehr

記念碑の前の日本人記者

横浜港の
ドイツ軍艦爆発事件

Photo: 横浜税関

日独が同盟を結んだ第二次世界大戦では、両国海軍による共同作戦が行われました。例えば1942年8月6日には、日本海軍の伊号第三十潜水艦がインド洋経由でブルターニュに派遣され、帰途のシンガポール沖で沈没していますが、当時のドイツ軍兵器の設計図の一部はシンガポールから空路を経て日本に届けられたものもありました。

当時のドイツ海軍からも潜水艦と封鎖突破船16隻がアジアに派遣され、日本軍占領下のペナンおよびシンガポール港沖で連合国軍の輸送船などを撃沈。当時のドイツ海軍はさらに横浜港を拠点に太平洋でも活動していました。

こうしてドイツの艦船が横浜に停泊している中、ある惨事が起こります。1942年11月30日の午後1時40分頃、ドイツの補給船「ウッカーマルク」が爆発を起こしたのです。ウッカーマルクはインドネシアから横浜港に航空燃料を輸送していました。爆発の原因は諸説ありますが、油槽清掃作業員の喫煙が有力と見られています。

爆発の衝撃は大きく、ウッカーマルクとその近辺に停泊していた当時のドイツ海軍の仮装巡洋艦「トール」、およびトールに拿捕されたオーストラリア船籍の客船「ナンキン」、海軍徴用船「第三雲海丸」の合計4隻が失われました。

その爆音は何キロも先まで響き渡り、横浜港内の設備や近隣の建物も大きく損傷。爆風と飛び散った破片により窓ガラスが粉々に割れるほどでした。この爆発でドイツ海軍将兵61人、中国人労働者36人、日本人労働者や住民など5人の合計102名が犠牲になりました。

周辺の住民や労働者にも多数の重傷者が出ています。このとき横浜の人々が見せた団結力はすばらしいものでした。住民たちは力を合わせ、救護所を開設し、それぞれの人ができる限りの助力を尽くしたのです。

外国籍の犠牲者は横浜外国人墓地および根岸外国人墓地に埋葬されました。今でも毎年11月には、追悼の墓前祭が行われています。生き残ったドイツ将兵の一部は戦局悪化のため帰国できず、箱根町芦之湯温泉の旅館に移されました。そして、終戦までこの地で暮らすこととなります。

横浜港の
ドイツ軍艦爆発事件

1942
Photo: 神奈川新聞(1942/12/01)

同盟国ドイツの軍艦による事故だったため、爆発事件は機密扱いとなって大きく報道されなかった。犠牲になったドイツ人乗員らを悼む墓前祭は、40 年以上にわたって根岸外国人墓地で営まれている。

Photo: 横浜税関

横浜港でのドイツ艦船爆発事故を報じる当時の新聞記事

Photo:『横浜港ドイツ軍艦燃ゆ 惨劇から友情へ 50年目の真実』木馬書館 (1995)

Photo: Bundeswehr / A. Kurzawski

第二次世界大戦中シンガポール経由でドイツから運ばれた設計図に基づき作成された戦闘機のエンジン

Photo: Bundeswehr / A. Kurzawski

エンジンは現在株式会社IHI社内の博物館に展示されている。(左から㈱IHI防衛システム事業部 鈴木一裕、ドイツ大使館武官カルステンキーゼヴェッター大佐、海上自衛隊幹部学校本名龍児1佐)

決して忘れない

Photo: picture alliance / Jemma Crew

ドイツのナチス政権が引き起こした第二次世界大戦は、1945年までにヨーロッパの多くの地を瓦礫に変え、計り知れないほどの暴力と苦難を人類にもたらしました。残虐な戦争行為や数多くの戦争犯罪が行われ、かつてない破壊力の兵器も使われました。最終的に、第二次世界大戦ではおよそ8,000万人が命を落とし、3,000万人が難民となっています。

この恐ろしい記録は、私たちに問いかけます。とうてい理解しがたいことを、人はどう受けとめ理解すればいいのか。想像を絶する犯罪を犯した国の人々は、その後どう生きていけばいいのか。いかにして過去と向き合えばいいのか。こうした問いは、起こった事実を受け入れるうえで不可欠です。しかし、ドイツの戦中世代は長らく自問を避けてきました。そこに初めて変化をもたらしたのが、西ドイツの若い世代でした。「68年運動」に代表される動きの中で、彼らは親や祖父母の世代に答えを求めます。これが、過去と向き合い続けるという自己批判の文化を築く礎となりました。

その中枢をなすのが、「決して忘れない」という決意です。第二次世界大戦中に行われた残虐行為を記憶に留め続けること――特に、ユダヤ人に対するホロコースト、そしてシンティ、ロマ、レジスタンス活動家、障がい者、同性愛者といった人々への迫害や殺害を忘れないこと。彼らを含めた多くの人々が「民族共同体」から排除され、ナチス政権によって迫害されたのです。

今日、さまざまな形で追悼が行われています。しかし大切なのは人々の死を悼むだけでなく、過去と向き合い和解することです。最もよく知られた追悼の地が、アウシュヴィッツ強制収容所でしょう。施設はソ連兵によって解放されたその日のままに保存されています。また、ベルリンの「虐殺されたヨーロッパのユダヤ人のための記念碑」(通称「ホロコースト記念碑」)は、ドイツ連邦議会議事堂にごく近い場所にあります。そのため、常に政治に関わる者たちの目に入ることになります。さらに、ドイツ国内やヨーロッパ各地の町や村には、それよりもっと小さな、そして多くの場合ささやかな記念碑が設置されています。それらは打ち捨てられたブロンズ製のジャケットであったり、壁に埋め込まれた石であったりします。

芸術家のグンター・デムニヒは、ある特別な記念碑の製作に取り組んできました。ナチスの「第三帝国」時代に強制退去させられ、移送され、殺害された人々がそれまで暮らし働いていた場所に、「つまずきの石("Stolpersteine")」を設置するというものです。設置はドイツ国内だけでなく、ヨーロッパやそれ以外の各地にも広がっています。2019年には75,000個目の石が埋め込まれました。

決して忘れない

1939
Photo: Bundesarchiv, Bild 183-2008-0415-508 / Arthur Grimm

ドイツ軍の爆撃で破壊されたワルシャワの街並み(1939年9月)

Photo: Wikimedia Commons / The National Archives and Records Administration

「ナチスの夜襲による無差別爆撃で家を失ったロンドン東部の子供たちが、自分たちの家だった残骸の外で立ち尽くしている様子」(1940年9月)

Photo: Wikimedia Commons / The Daily Mail

セント・ポール大聖堂の屋上から見たドイツ軍爆撃後のロンドン

Photo: Bundesarchiv, Bild 141-2020 / o.Ang.

ドイツ軍の爆撃を受けた1941年のミンスク。街の85%が完全に破壊された。

Photo: Bundesarchiv, Bild 146-1978-093-03 / Niermann

急降下爆撃機によって破壊されたスターリングラードの工場 (1942年)

1944
Photo: Wikimedia Commons / Library of Congress

1944年5月31日、ルーマニア・プロイェシュティのコンコルディア・ベガ製油所に爆弾を投下した後、対空砲火をものともせずに上空を飛行する第15空軍のコンソリデーションB-24リベレーター

Photo: Wikimedia Commons / SLUB / Deutsche Fotothek / Rössing, Roger & Rössing, Renate

Trümmerfrau

ドイツの62都市にある360万戸の住宅が爆撃で破壊され、学校などのインフラも半分近くが失われた。 爆撃された都市の再建は、残された女性たちの手に委ねられた。

ドイツの戦後
Photo: Bundesarchiv, Bild 04413 / Stanislaw Mucha

1945年の解放直後に撮影されたアウシュビッツ=ビケナウ強制収容所。

Photo: picture alliance / Jemma Crew

悪名高い「働けば自由になる」の スローガンが掲げられている。

Photo: picture alliance / dpa

1970年12月7日、西ドイツのヴィリー・ブラント首相は、ポーランドの首都ワルシャワにあるゲットー英雄記念碑の前で跪きながら黙祷した。

Photo: picture alliance / imageBROKER / Joko

つまずきの石:ナチスの被害者を忘れないための記念の石

Photo: Wikimedia Commons / K. Weisser

ベルリンの虐殺されたヨーロッパのユダヤ人のための記念碑

Photo: Ole Neitzel

ベルリンのドイツ連邦議会議事堂に残された旧ソ連軍兵士が残したグラフィティ

Photo: picture alliance / Winfried Rothermel

1940年10月22日にフライブルクのユダヤ人がグール収容所に強制送還されたことを記憶にとどめるための記念碑。列車が強制送還の準備をしていた場所の近くに、投げ捨てられたようなコートがブロンズでかたどられている。

協働に学ぶ

Photo: picture alliance / dpa / Carsten Rehder

第二次世界大戦がもたらした恐怖と不正義は、人類を行動へと駆り立てました。ナショナリズムと軍国主義という脅威に断固として立ち向かい、戦争の惨害から人類を救うため、1945年、51の加盟国により国際連合が創設されます。前身である国際連盟が個々の国の利益追求によって無力化したのに対し、国際連合は協働に重きを置くことで成功の道を歩み、現在では193か国が加盟しています。

当時における最大の成果は、「すべての人間は、生れながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とについて平等である」という普遍的かつ侵すことのできない人権について合意したことでした。1948年12月10日、これらの権利は世界人権宣言に正式に定められます。この宣言には、生命、自由および安全に対する権利、拷問や暴力から保護される権利、法の下の平等の権利などが盛り込まれました。

日本と、当時は東西に分裂していたドイツもまた、国際社会に復帰する中で将来を見据えていました。ドイツ連邦共和国(西ドイツ)と日本は、ともに成熟した民主主義国家として近隣諸国と平和的関係を築きつつ、経済的・社会的成功を目指すこととなります。その過程で、日独両国は再び利益を共有する重要なパートナーとして、友好関係のネットワークを密にし、文化を始めとするさまざまな分野で交流を深めていきます。一方で、軍事面での協力が始まるのは冷戦終結後のことでした。

ドイツが再統一を果たして以降は、両国間における安全保障分野での協力も始まりました。これらは平和維持活動など、世界平和を保つという明確な目的のもと行われています。

とはいえ、日独両国による共同の取り組みは、軍事・安全保障の領域をはるかに超えています。ここからの展示では、芸術、音楽、スポーツなど、幅広い分野での文化交流についてもご紹介します。

新たな課題と使命

Photo: picture alliance / dpa / Jens Büttner

新たな課題と使命

日本とドイツが軍事防衛面を含めた密接な協力関係を再び築いていくのは、冷戦が終結した1989年以降のことです。初期の共同活動の場となったのが、第二次湾岸戦争直後のペルシャ湾でした。第二次湾岸戦争が始まる前の1990年4月には、ドイツは「南方の盾作戦」の一環として、掃海艇などの最初の部隊を地中海に派遣していました。当時は、憲法に相当するドイツ基本法の解釈によりNATO域外での軍事行動が禁止されていたため、湾岸戦争への直接の派兵は不可能だったのです。しかし、世界有数の経済大国となったドイツに対し、より積極的な貢献を求める国際的な圧力も高まっていました。

ドイツ国内では、ドイツ連邦軍(Bundeswehr)がNATO域外で活動する条件について、社会的にも政治的にも激しい議論が起こり、ついには連邦憲法裁判所にまで持ち込まれます。特に重要な論点のひとつとなったのは、冷戦後の世界においてドイツ連邦軍はいかなる目的をもつべきか、というものでした。

1991年3月、ドイツはアメリカの要請に応じて、ペルシャ湾に掃海艇を派遣。人道支援の一環としてイラク近海の機雷を取り除き、航行の安全を取り戻します。このドイツ海軍部隊のペルシャ湾派遣は、日本に対しても経済力に見合った貢献をするよう求めるシグナルとなりました。ドイツの基本法と同じく、日本の憲法は戦後の施行当初から、平和主義的な形で解釈されてきました。その日本でも、自衛隊の海外派遣の可否について議論が始まります。最終的に、日本政府はペルシャ湾への掃海艇派遣を決定。その根拠となったのは自衛隊法第99条でした。

機雷除去活動が始まると、日本とドイツの掃海部隊は隣接するエリアを担当することになり、さまざまな協力の機会が生まれました。ペルシャ湾に3機のヘリコプターを展開していたドイツ海軍は、日本の掃海母艦「はやせ」および補給艦「ときわ」から給油を受けることとなります。対してドイツ海軍は、日本海上自衛隊の人員や物資の輸送をサポートし、これに報いました。

ペルシャ湾での活動中、作戦以外のところでも日独の協力がうまく機能していたことを物語る逸話があります。1991年6月25日、ドイツ海軍の掃海艇「ゲッティンゲン」で急病人が発生しました。患者は深夜の遠洋上で日本の掃海母艦「はやせ」にて応急処置を受け、容体が安定。翌日、アメリカ軍のヘリコプターでサウジアラビアの病院に搬送されました。日独が協力して動いたことで、人命が救われたのです。

新たな課題と使命

1991
Photo: 『湾岸戦争後の掃海活動における海軍間協働 日独協力(「湾岸の夜明け作戦」と“Operation Südflanke”)を例として』(海上自衛隊幹部学校SSGコラム189 2021/03/18)/ Taken by the German Navy

「南方の盾作戦」に従事した独海軍掃海艇

Photo: picture alliance / ZUMAPRESS.com / Stanislav Kogiku

防衛大学校の入学式の伝統儀仗隊行進

Photo: picture alliance / dpa / Jens Büttner

2016年8月12日ロストックを訪れた海上自衛隊護衛艦あさぎり

Photo: Japan Self-Defense Forces

連邦軍指揮幕僚大学校の留学生たち

21世紀における協力

Photo: Japan Self-Defense Forces

21世紀における協力

自由な航路と自由な貿易および物品の移動は、日独両国にとって重要な資産です。しかし21世紀に入ると、アジアとヨーロッパを結ぶ海上輸送の大動脈であるソマリア沖のアデン湾で海賊による脅威が増大。

日本とドイツは艦船や航空機を派遣し、これに対処するようになります。2009年7月に海賊対処法が施行されて以降、海上自衛隊はこの海域において、日本船籍または邦船社が所有する船舶だけではなく、他国の船舶も護衛できるようになりました。このような形で、日独は互いにサポートし合っています。

ドイツ連邦軍と日本の自衛隊は、音楽を通じてもつながっています。2018年には、日本の陸上自衛隊中央音楽隊とドイツ連邦軍参謀軍楽隊がベルリンで合同演奏を実施。これは1918年6月1日、徳島県の坂東俘虜収容所でドイツ軍捕虜の軍楽隊がベートーベンの「第9」を初めて演奏してから100周年という記念すべき年を祝ったものです。その後も双方の国で音楽隊の客演が行われ、ハイレベルな音楽隊同士の交流が深まっています。

2020年9月、ドイツは「インド太平洋外交指針」と題する基本戦略文書を公表。インド太平洋への関心をあらためて示すとともに、その枠組みの一環として、価値あるパートナーである日本との地域協力を深めていくことを再確認しました。

2020年11月16日には山村海上幕僚長とクラウゼ独海軍総監が、インド太平洋地域における海上自衛隊と独海軍の協力関係を一層強化することで合意しています。その一例として、2021年から2022年にかけて、ドイツのフリゲート艦がアジアに派遣される計画です。同艦は北朝鮮に対する国連の制裁監視活動に加わり、法に基づいた国際秩序の維持に貢献することとなります。

21世紀における協力

2006
© Bundeswehr / Rott

パトロールに指示を出すスーダンの国連監視員

© Bundeswehr / Rott

2006年スーダンで活動するドイツ連邦軍

© Bundeswehr / Sebastian Wilke
Caption from Bundeswehr

ドイツ海軍の掃海艇「エンスドルフ」(HL-Boot)での活動風景

© Bundeswehr / Sebastian Wilke
Caption from Bundeswehr

5 国連レバノン暫定隊(UNIFIL)は、レバノン沖で実施されており、東地中海における船舶の航行安全確保、武器密輸の防止、レバノン海軍の訓練などを行っている。

Photo: Japan Self-Defense Forces

陸上自衛隊中央音楽隊・ドイツ連邦軍参謀軍楽隊が2018年日本国外務省「DAIKU 2018」プロジェクトの一環としてベルリンブランデンブルグ門前にて合同演奏

Photo: Japan Self-Defense Forces

2019年自衛隊音楽まつりに出演するドイツ連邦軍参謀軍楽隊

© Bundeswehr / Ingo Tesche

演習で離陸するユーロファイター戦闘機。

Photo: picture alliance / dpa / Mohssen Assanimoghaddam

ドイツ海軍 ヘリコプター Sealynx

Photo: Japan Self-Defense Forces

自然災害救助・支援で出動する自衛隊

2021
© Bundeswehr / Tom Twardy

2021年アール渓谷での甚大な水害での救援活動を行うドイツ軍

Photo: Japan Self-Defense Forces

日独2+2会談に臨む岸防衛大臣

さまざまな分野での交流

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さまざまな分野での交流

20世紀後半における日独関係は、政治、経済、科学、文化などさまざまな分野で両国の社会をつなぐ密接なネットワークへと発展していきます。

1949年にドイツ連邦共和国が成立し、1952年にサンフランシスコ平和条約が発効すると、日本と西ドイツは正式に外交関係を再開。両国ともに1950年代後半から「経済の奇跡」と呼ばれる経済成長を経験し、活発な文化交流も再び生まれていきます。一方、日本とドイツ民主共和国(東ドイツ)は1973年に外交関係を樹立。やはり活発な経済・文化交流が行われました。

日独の交流は個人レベルでも脈々と続いてきました。文化面での例をいくつかご紹介しましょう。例えば、バイオリニストの安永徹は1983年にベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の第一コンサートマスターに就任。同じく日本出身の樫本大進は現在も第一コンサートマスターを務めています。指揮者の佐渡裕はベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の客演指揮者として2011年の定期公演で指揮をとりました。1979年には、ライプツィヒを拠点とするクルト・マズアが読売日本交響楽団の名誉指揮者に就任しました。一方で、テクノやハウスといった現代的な音楽ジャンルも両国に根強いファンがおり、電気グルーヴなどの日本人アーティストがラブパレードを始めとするドイツの大規模イベントに出演しています。

日独の文学作品も、両国の読者の間で高い人気を誇っています。ハンブルク大学出身の多和田葉子は、ドイツ語と日本語で小説や詩を発表し、両国で数々の文学賞を受賞しています。また、日本を代表する現代美術家の奈良美智は、1993年にドイツ国立デュッセルドルフ芸術アカデミーを修了。その後2000年まで、ケルン近郊のスタジオで作品制作を行っていました。

さらに、日本でもドイツでも熱く愛されているのがサッカーです。日独間では選手やコーチ、監督らが毎シーズン行き来しています。「日本サッカーの父」として知られるデットマール・クラマーは、1960年から釜本邦茂らを育成。オリンピック銅メダルの礎を築きました。1991年にJリーグが始まると、ワールドカップ優勝メンバーであるピエール・リトバルスキーやギド・ブッフバルトが中心選手として参加。以来、同じく世界制覇を経験しているルーカス・ポドルスキを含め、9人のドイツ人選手が日本でプレーしています。日本からは1977年に奥寺康彦がブンデスリーガのFCケルンへ入団し、欧州のトップリーグで活躍する日本人選手の先駆けとなりました。奥寺康彦、長谷部誠、香川真司は、主力選手としてリーグ優勝を経験しています。また2011年にドイツで開催された女子ワールドカップでは、「なでしこジャパン」こと日本女子代表チームが初優勝を飾りました。

さまざまな分野での交流

© StarCrest Media GmbH

ズールの寿司

『ズールの寿司』は、実在した東ドイツ唯一の日本食レストランが舞台となった物語。2012 年に初公開され、ドイツ国内でヒットした。

Photo: Bundesarchiv, Bild 183-1984-1003-010 / Helmut Schaar
© Jochen Viehoff

ピナ・バウシュ

ドイツ表現主義の影響を受け継いだコンテンポラリーダンスで、独自の芸術を創り上げた舞踊家。日本での公演も多く、舞踏家の大野一雄とも交流があっ た。2007 年には京都賞を受賞している。

© Olga Film

ドーリス・デリエ

1985年の初来日した映画監督のドーリス・デリエは、その後も日本での滞在を重ねがら『MON-ZEN』、『漁師と妻』、『HANAMI』、『フクシマ・モナムール』などの作品を制作している。

© Jun Yoshimura

佐渡裕

京都市立芸術大学音楽学部フルート科に在籍しながら指揮活動を開始。2011年にはベルリン・フィルハーモニー管弦楽団に客演指揮者として招かれ、5月21〜23日の定期公演でタクトを振った。

© Fumiaki Fujimoto

樫本大進

11歳からリューベックでドイツのギムナジウムに通いながら、音楽院の特待生としてヴァイオリンの腕を磨く。2009年10月より、ベルリン・フィルハーモニー 管弦楽団第1コンサートマスターを務めている。

© macht inc.

電気グルーヴ

石野卓球とピエール瀧を中心メンバーとして 1989 年に結成。クラフトワークや YMO に影響を受けな がら独自のスタイルを確立し、ベルリンのラブ・パ レードをはじめドイツ国内のテクノイベントにも多 数参加している。

Photo: Michelle Heighway

ダモ鈴木

ダモ鈴木こと鈴木健次は1970年代初頭からドイツに暮らし、1970〜1973 年にケルンのクラウ トロックバンド「カン」でボーカルを務めた。日独両国でヒッピーカルチャーを体現する存在だ。

© Universal Music Group

クラフトワーク

テクノポップというジャンルを開拓した世界的な先 駆者として知られ、日本の YMO にも多大な影響を 与えた。1981 年の初来日では、東京、大阪、名古屋 の 3 都市で公演。2019 年の来日公演でも、幅広い世 代のファンを熱狂させた。

Photo: Wikimedia Commons

1970年代初頭に作られたクラフトワークのカスタムヴォコーダー

Publisher: Konkursbuch Verlag

多和田葉子

早稲田大学第一文学部ロシア文学科を卒業後、ドイツで働きながらハンブルク大学大学院を修了。ハンブルクとベルリンに居を構えながら、1987年以来さまざまな作品をドイツ語と日本語で発表している。

Photo: Wikimedia Commons

奈良美智

青森県弘前市に生まれ、愛知県立芸術大学院修士課 程を修了後に渡独。ドイツ国立デュッセルドルフ芸術アカデミーを修了後、ケルン近郊のアトリエで制作する絵画が世界的な人気を博した。

Photo: 株式会社シックス / Dettmar Cramer Foundation

デットマール・クラマー

日本サッカー界初の外国人コーチとして1960年に招聘され、「日本サッカーの父」と称されたサッカー 指導者。日本代表チームの代行監督としてメキシコ 五輪銅メダルへの礎を築き、日本サッカーリーグの創設にも尽力した。

Photo: Japan Football Association / Dettmar Cramer Foundation

Photo: Auswaertige Amt

長谷部誠

2008年からドイツのブンデスリーガ(ドイツ1部リーグ)でプレーする長谷部誠。ブンデスリーガにおけるアジア人最多出場記録を更新し続けいる。

Photo: picture alliance / dpa / Arne Dedert

なでしこジャパン

ドイツで2011年に開催されたFIFA女子ワールドカップ。日本代表チームは、アメリカ代表チームを破って初優勝を飾った。アジアのチームとして、男女含めて初めてFIFAのタイトルを獲得する快挙だった。

Photo: picture alliance / dpa / Revierfoto

女子日本代表チームキャプテンの澤穂希が、 決勝戦の延長後半に劇的な同点ゴールを決めた。

ドイツ連邦軍
(Bundeswehr)
について

Photo: Bundesarchiv, Bild 183-34150-0001 / o.Ang.

ドイツ連邦軍
(Bundeswehr)
について

Photo: Bundesarchiv, Bild 183-34150-0001 / o.Ang.

1955年11月12日、テオドール・ブランクにより、新たに設立されたドイツ連邦軍に就任するアドルフ・ホイジンガー中将とハンス・シュパイデル中将


Photo: Bundesarchiv, Bild 098967 / o.Ang.

1955年ドイツ連邦共和国NATO (北大西洋条約機構)加盟
伝統の系譜
ドイツ連邦軍は1955年11月12日に創設されました。

その伝統は、1807~1813年のプロイセン軍政改革、ナチス政権への抵抗、そして1955年の創設後に歩んできた自らの歴史という、3つの源に基づくものと考えられています。ナチス時代の国防軍やドイツ民主共和国(東ドイツ)の国家人民軍とは明確に異なる組織であり、何らこれらを受け継ぐものではありません。

発展
ドイツ連邦軍は当初、冷戦を背景にNATO内の同盟軍として構想されました。それから月日を経て、連邦軍は多くの変化を遂げてきました。1990年にドイツが統一されると東ドイツの国家人民軍を統合し、防衛軍から作戦遂行軍へと転換し(1945年以降初の軍事行動は、1999年3月のNATOによるセルビア空爆への参加でした)、女性に門戸を開き、徴兵制を中止してきました。現在のドイツ連邦軍は、引き続き自国および同盟諸国の防衛に注力するとともに、絶えず構造変革に取り組んでいます。インド太平洋地域におけるドイツの安全保障上の関与が高まる中で、新たな課題にも向き合っています。

任務
ドイツ連邦共和国は、ドイツ基本法(ドイツ憲法)第87a条に基づき、国防のための軍隊を設置しています。1990年以前には、連邦軍の国外派遣は災害救助を目的とするものに限られていました。その後1994年の連邦憲法裁判所の判決によって、防衛の概念がより広く解釈されるようになり、国連、NATO、EUの枠組みの中で同盟地域外への派遣が可能になりました。

ドイツ連邦軍
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について

国外派遣
ドイツ連邦軍の国外派遣は、1990年のペルシャ湾における「南方の盾作戦」から始まりました。その後、国連、NATO、EUの枠組みの中で、ソマリア(UNOSOM II)、コソボ(KFOR)、アフガニスタン(ISAF/RS)、マリ(EUTM/MINUSMA)など多数の派遣が行われました。今日、ドイツ連邦軍は3大陸で12の地域における国外任務にあたっています。1992年以来、114名の兵士がドイツ連邦軍の国外任務で殉職しました。

「内面指導」と「制服を着た市民」の理念
「内面指導」(Innere Führung)はドイツ連邦軍のいわば「組織理念」です (この意味で「内面」は個々の兵士だけでなく、組織内部という意味も込められています)。連邦軍兵士は「制服を着た市民」として、ドイツ基本法の価値観と規範を特に遵守しています。「内面指導」はすべての兵士にとって、責任ある行動をとるための基盤となります。この一連の価値観に則して、任務の戦術に沿って自主的に思考し行動すること、それが連邦軍の基本理念です。

ドイツ連邦軍の国内活動
ドイツ連邦軍の国内派遣には厳しい制約があります。ドイツ基本法では、災害救助と行政緊急支援以外の活動が認められていません。ドイツ連邦軍は、その知識、技術、資材、人員を通じて民間組織を支援しています。現在は約25,000人の兵士が、新型コロナウイルス感染拡大への対応のため派遣されています。主な派遣先は、介護施設、保健所、コロナ検査センター、ワクチン接種センターなどです。

女性の登用
ドイツ連邦軍が創設された当時は、まだ女性が軍隊に加入するなど考えられない時代でした。管理部門の文民職員として採用されるのが、女性にとって唯一の機会でした。しかし1975年、深刻化する人員不足のため、医療部門が女性の医療従事者に門戸を解放。1991年には、医療部門と軍楽部門のその他のポストでも女性の受け入れが認められます。1994年にはフェレーナ・フォン・ヴェイマルンが空軍軍医総監に就任し、ドイツ軍初の女性大将が誕生。2000年には欧州司法裁判所が不平等な待遇を認めないとする判決を下したことで、すべての部門が女性に開放されました。2007年には初の女性戦闘機パイロットが免許を取得。ドイツ連邦軍における女性の割合は、現在約13%となっています。
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ドイツ連邦海軍の制服
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ドイツ連邦陸軍の制服
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ドイツ連邦空軍の制服
1975
© Bundeswehr/Oed
Caption from Bundeswehr

1975年ドイツ連邦軍衛生軍初代女性将校たちとドイツ国防大臣ゲオルグ・レーバー

© Bundeswehr/Detmar Modes
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ヴェレーナ・フォン・ヴェイマルン外科医長
は、女性で初めて大将の地位に就いただけではなく、女性として初めてドイツ連邦軍の病院で主任医師として指揮を執った。1976年9月、ヴェレーナ・フォン・ヴェイマルン博士はドイツ連邦軍に医官として入隊。

Photo: Wikimedia Commons / U.S. Air Force

ウルリケ・フィッツァーは、ドイツ空軍初の女性戦闘機パイロットである。2006年にシェパード空軍基地で行われたユーロNATO共同のジェットパイロット訓練計画を卒業し、翌年にはホロマン空軍基地で行われたトルネードの飛行訓練を修了し、ドイツ空軍初の女性パイロットになった。

2015
© Bundeswehr/photothek/Michael Gottschalk
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2015年11月11日ベルリンのライヒスターク前で、ドイツ連邦軍の60歳の誕生日を記念して行われた大帰営譜に参加した兵士たち。

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© Bundeswehr/Jonas Weber
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ドイツ連邦軍のバイエルンの豪雪後の派遣。軍事災害警報(milKATAL)が発令された、バートライヘンハル(バイエルン州)で屋根の雪下ろしを手伝う山岳隊員たち。(2019年1月11日)

© Bundeswehr/Jonas Weber

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艦船ハンブルグIRINI作戦派遣に向け出港。乗員の家族・関係者らが見守る中母港ヴィルヘルムスハーフェンを出航するハンブルグEUのミッションIRINIのため5か月余りの航海二出る。(2020年8月4日)

未来への展望

160年にわたる日独の文化・軍事の歴史をめぐる旅をお楽しみいただけたでしょうか。この旅路の中で新たな発見があり、両国の歴史への理解を深めていただけたならば幸いです。

日独両国は、極めて困難な歴史を経験しています。160年の時を経て、両国は知識や喪失だけでなく、責任をも分かち合う関係となりました。

今日の日本とドイツは、多国間主義を強化し、平和と法に基づく国際秩序を維持するという共通の目的のもと、互いに信頼できる安定したパートナー関係を築いています。

パートナーとして、同盟国として、そして何よりも良き友人として、これからも共にさまざまなことを達成していける未来を期待しています。

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